初めての営業

序章
1968年(昭和43年)初夏、26才のオレ(湯の街ネヲン)は、陸上自衛隊の除隊を決めると、あみだくじの階段をたどるようにして伊豆熱川温泉の温泉旅館・ホテル アタガワに就職した。
仕事は、お客様から宿泊料をいただくお会計係(経理)である。この物語は、それから3年半が過ぎた春のある夜の旦那さん(社長)との会話からはじまります。
当時の温泉旅館は、女将さんの指示のもと古参の番頭さん(支配人)や女中頭を中心にまわっており、ご主人はといえば名ばかりの社長で、旦那さんとかお父さんとか呼ばれ、家業の仕事はほったらかしで、毎日ブラブラと競輪・競馬にパチンコ・麻雀、芸者遊びにと好き勝手をしていた。温泉旅館は儲かっていたからである。
湯の街ネヲン、もし、就職先の旦那さんが遊び人であったら、今頃は場末のドブのよどみに沈んでいただろう。
こんな時代、ホテル アタガワの旦那さんは例外中の例外であった。この40歳半ばの旦那さんは、現場での細かな仕事一つ一つには手や口を出さなかったが、旅館経営には全力をそそいでいた。とくに社員教育には熱心で人を動かす天才であった。
社員教育といっても、業務マニュアルを作ったり、社員を一堂に集めて小難しい講義などをするのではない。いつもマンツーマンであった。話し好きのおじさんという感じで、時や場所を選ばず社員をつかまえては、館内での出来事や時々の世間話をうまく取り入れて、相手のレベルに合わせて解りやすく話しをして聞かせた。
この旦那さんは、まわりの人達よりも背がヒョロリと高く、手と足がとても長かった。おまけに顔までが長い。そして、社員達と話をするときは、身体を折り曲げ相手の目線に合わせて顔を近づける。話が核心に及ぶとさらに顔を近づけた。だから、気が付くと少し飛び出し気味のギョロ目の長いが顔がすぐ目の前にあった。
旦那さんの思いもよらない話!
ある春の夜、湯の街ネヲンは旦那さんに呼びだされた。その場所は温泉街の中心にある社長宅の2階にある書斎で、個人的な事務室も兼ねていた。向かいの遊技場のネオンの瞬きが窓のくもりガラスに映ったり、酔客の下駄の音や嬌声などが響いてきた。
糖尿病があった旦那さんには夕食後の酒の量に制限があり、焼酎がキッチリ二杯と決まっていた。特に太っているわけでもないのに、とても汗かきで焼酎を飲んでいるときは、冬でも一すじ二すじの汗を流していた。

さて、この夜の旦那さん(以下、社長)の話は、湯の街ネヲン(以下、ネヲン)とって思いもよらないものであった。
社長は、目元を少し赤くして、長い人差し指で小刻みに足元を指しながら「ところでネヲンさんは、ここに来てどのくらい?」と訊いた。
この社長は、どの社員にも必ず「さん」づけで呼ぶ。そして、下の社員になるほど優しい笑顔と声音で話しかける。また、すべてを承知していながら「どのくら経ったの?」などと話しはじめる。見かけとは違って、本当は何でも知っている恐ろしい社長であった。
「3年半です」と、ネヲンはぶっきらぼうに答える。
「そうか、もう3年も経ったのか!」と、感慨深げにいい「毎日毎日、同じ仕事ばかりでは飽きるだろう」と続けた。
ネヲンは、経理だもの毎日の仕事が繰り返しは当たり前だろうと、胸中で思いながら、つぎの言葉を待った。
すると社長は、「たまには、息抜きに外に出てみるか?」と、ネヲンにはちょっと理解しがたいことを言った。
「どう云うことですか?」と、ネヲンは意味がわからずに聞き返した。
社長が解説をした。「営業ということで外に出すから、都会の空気を吸って気分転換をして来いと云うことだ」と。
「営業ですか!?」と、ネヲンは意外な展開に驚きの声を発した。ネヲンの脳裏には、仕事としての「営業」という思考がまったくなかった。トラックのランナーが、いきなりプールに飛び込めといわれたようなものである。
ネヲンの胸中を見抜いている社長は、「バカ! お前に客を取ってこいなんて、これっぽっちも思っちゃいない」と、指先をまるめ弾くようなしぐさをしながらいった。さらに、「第一、お前はぶっきらぼうのうえに、顔からして営業向きでない」と続けた。この言葉にネヲン、妙に納得した。
このあと、社長は信じられないことをいった。
社長は、長い指を親指からゆっくりと折おりながら、月、火、水、木、金といい、そして、今度はその折り曲げた指をパッとひろげて、ネヲンの顔の前で手のひらを左右に振りながらいった。
「ネヲンさんや」と、おだやかにいって、ひと呼吸おいて続けた。「気分転換のために営業という名目で出張させるのだから、5日のうち3日間は映画を見るなり好きにしていい。ただ、ほかの社員の手前があるから、2日間は営業のまねごとをして、それらしい報告をしてね」といい、そして、この社長はネヲンの反応をみながら「まねごとでいいんだぞ! 気楽に行ってこい」と、念を押した。
てなワケで、営業に出るようになった!
はた目には、なんていい社長なんだと見えるかも知れないが、実は、そんなお人よしの社長ではない。向上心の強いネヲンの性格を見抜き、5日のうち3日は遊んでいいよという「エサ」をぶら下げて、もう一つの仕事(営業)をネヲンに与えたのである。
事実、日々のお会計業務は代役にバトンタッチしたが、経理本来の仕事はしっかりとネヲンの手元に残った。この日からネヲンは経理兼営業となった。