猫のイラスト
舘山寺温泉街

温泉旅館物語 3ある営業さんの物語

序章

今は平成12年、「天城四郎」は、三人の子たちがそれぞれ独立し、孫もでき、立派な家庭を築いているので、夫婦ともども悠々自適な老後をもくろみ、生命保険会社を早期退職し、埼玉の熊谷市から、生まれ故郷の静岡の浜松市に Uターンした。

しかし、退職にあたり封じ込めたはずの仕事のムシがすぐに動き出し、平成15年に浜名湖かんざんじ温泉の旅館に再就職した。天城さんには、どんな仕事でも勤め上げる自信があったので、ハローワークですすめられたまま畑違いの温泉旅館に就職した。

天城さんは、浜松の裕福な農家の三男坊として生を受け、強くたくましく育ってほしいと願う両親が三四郎と名付けた。が、役場の戸籍係りが、誤って四郎と記載したため三男なのに四郎という名がついたそうだ。

お隣り愛知県の大学を卒業し生命保険会社に就職した。入社後、東京都心にあった研修所で、同期生60人と共に一年間もみっちりと鍛えられたという。

宴会場
宴会場でのお手伝い

旅館での天城さん、出勤は早朝6時、朝会食場の設営準備から、館内の作業がピークをむかえる夕刻からは、宴会場への料理運びから配膳の手助けまでし、宴会終了後の残飯の始末まで、女中さんたちと一緒になって汗を流しているそうだ。

どんな作業でも、ネクタイを緩めることなく背広も手放さず、黙々と体を動かしつづける天城さんの仕事ぶりに、仲間うちの好感度はうなぎ上りだったそうだ。

そして天城さんは、前職が生保の所長ということと、この館内での仕事ぶりが評価され、一年足らずで支配人に抜擢されたという。

天城さんが来た

今は平成20年。今日も暑くなりそうだ。9月も末だというのに強い日差しが差し込んでくる。冬は温室のようだが、暑い時期はもう勘弁してよといいたくなる。ここは、埼玉の川越市にあるマンションの一室で、「湯ノ街ネヲン(以下、ネヲン)」が営む、通称「総案」という「ホテル旅館・ドライブイン総合案内所」の事務所である。

「総案」とは、都道府県知事の登録を受けた「旅行サービス手配業」を営む人たちの通称で、「旅行者」の依頼を受けた「旅行業者」の手配業務を代行し、旅行業者とホテル旅館・ドライブインを結ぶ行為を報酬を得て行う事業です。

その朝、浜名湖かんざんじ温泉の「天城四郎」さんが初めて来社した。天城さんは、「ホテル舘山寺」の支配人でネヲンと同年代で、タフそうな体つきだが背丈はやや低い。容貌は、律義そうであり、やや近寄りがたい感じがした。

ホテル舘山寺は、収容人員300人で、先代からの跡取リ夫婦が、舘山寺の門前通りから内浦湾沿いに新築移転した評判のいい旅館である。

「暑かったでしょう」

と、予約手配係の家内がコーヒーを淹れに席を立った。コーヒーミルの回転音がやむと、室内には香ばしい香りが漂った。長いお付き合の始まりである。

コーヒーミル
コーヒーミル

天城さんは、喜怒哀楽が顔に出ないタイプのようだが、コーヒーを前にしてわずかに表情をくずし、ステックシュガーを半分、コーヒーフレッシュを丁寧に落とし、美味そうにゆっくりとすすった。背中を照らす太陽がまぶしかった。

天城さんの前職を知って胸を躍らせる、ネヲン!

なぜかネヲン、セールスというと、まず保険のおばちゃんが思い浮かぶ。そして、生命保険会社の人たちはセールスのプロ集団だと思っている。

今、目の前にいる天城さんが、その保険のおばちゃんを束ねていた親玉で、かつ、セールスのプロ集団のトップだったと聞いて興味津々であった。

それを知ったネヲンは、前職の旅館の社長が、事務タイプのネヲンに、不愛想でぶっきらぼうで顔からして営業向きではないと言いながらも、営業への道をきり開いてくれた時代へとワープした。その時代のネヲンは、生命保険会社の人からセールスの基礎を学びたいと思っていた。

元生保の営業所長
セールスレディの親玉

さて、この頃になると、「浜名湖花博」に続き、平成17年には「愛・地球博」が開催さ2200万人以上の入場者があったが、それ以降、観光業界を活気づかせるような大きなイベントもなくなった。

それが原因ではないが、昭和の時代、特に高度経済成長期には国じゅうで沸いていた団体旅行のブームが終わり近づいていた。あきらめの早いネヲンは、ブームが下火になるとなにをやってもダメだと見聞きしていたので、先はないと悟っていた。

そんなところへ天城さんが登場した。ネヲン、衰退期に入った観光業界での取るべき営業戦略、および、その打開策のアドバイス、または、新しいスタイルのセールス方法を伝授して貰おうと、天城さんに食らいつくことにした。

セールスを仕事とした対照的な二人

二人のサラリーマンのイラスト

天城さんは、生命保険会社一筋で、ずっ~とセールスの世界で飯を食ってきた。ネヲンも人生の後半生はセールスを飯の種とした。

同じくセールスを生業にした者同士であるが、その手法は全く違った。正規の教育を受けた天城さんに対し、ネヲンのそれは全くの我流であった。

天城四郎さん

天城四郎さんは、生命保険会社に入社以来、順調に出世し、群馬・埼玉で営業所長を勤めて、地域を統括するエリアマネージャーにまで昇り詰め、生保の営業は、「断られた時から始まる」というのが口ぐせの筋金入りの生保マンであった。

栄養ドリンクのイラスト

時代が二人に味方した

昭和43年~50年代にかけて、丸善石油のCMで小川ローザが放った「オー、モーレツ」にちなんだ「モーレツ社員」が、ハバをきかせ日本の経済成長を支えた。

その後、ヤクルトの「タフマン」、リゲインの「24時間戦えますか」と、企業戦士の応援歌を流し続けていた。

この時代は、欧米に追いつけ追い越せという明確な目標があり、寝る間も惜しんで働く、軍曹タイプの企業戦士・天城さんにはピッタリであった。

「軍曹タイプ」というと、テレビドラマの暴力的な鬼軍曹を思い浮かべるが、実際には、部下を厳しく指導し統率するリーダーシップスタイルのことです。

湯ノ街ネヲン

ネヲンは、奇しくも天城さんと同じく、社会人へのスタートラインは生命保険会社であった。が、天城さんとは違って、入社試験の段階で厳しくはねのけられた。

時代は東京オリンピックの華々しさのあとの「40年不況」の色が濃くなっており、自分の実力では普通の会社には居場所がないとネヲンは直感した。そんなわけで、自衛隊にもぐり込み、温泉旅館を経て、40歳のときに地元埼玉に戻り総案を起業した。

団体旅行中のバスの乗客

時代が二人に味方した

ネヲンは、3年間の自衛隊生活を終え、旅行ブームが始まったばかりの伊豆熱川温泉の温泉旅館に就職した。

運がいいとはこんなもので、その後の総案時代と合わせて45年、長く続いた団体旅行ブームのなかで、川の流れに身をまかせるように、ゆらゆらと生きてこられた。

同行セールス

「自ら機会をつくり、機会によって自らを変えよ」とは、昭和最大の起業家で「株式会社リクルート」の創業者として知られる江副さんの遺した有名な社訓です。

今となっては、江副さんに刺激を受けたのか? その実態は闇の中だが、昭和40年代のなかば「情報をビジネス化するという発想がなかった時代」に、温泉旅館の営業を代行するという「ホテル旅館総合案内所(総案)」を起業した先人がいた。

昭和40~50年代は旅館経営もに余裕があり人手もあったし、番頭兼の営業さんもいた。その時代の営業といえば、もっぱら盆暮の固定客へのご機嫌伺いであった。そんな時代に総案は、旅館の営業さんと、いまだ草創期であった街の旅行業者とを結びつける努力をした。その甲斐があって、この業界で認知されるようになった。

時代が進み、旅館の大型化と過疎化が相まって人手不足の時代になると、旅館には専任の営業マンを置く余裕がなくなって、フロント兼営業というような形態をとるようになった。早い話が、旅館での内勤が主体で、営業は片手間になったのである。

そんなわけで、セールス経験の浅いフロントの社員たちの負担の軽減と効率を考えて、総案を道先案内として営業を行うようになった。「同行セールス」とは、文字通り「総案と旅館」とが一体となって、旅行業者にセールスをかけることです。

同行セールスのイメージ
同行セールス

内緒の話だが、大きな旅館の専業セールスマンの中には、出張先で仕事もせずに遊んでいる不埒者も数多くいた。そんな不届き者の監視させるために同行セールスを活用したという話もあった。

「同行セールスって楽だよね。居眠りしていても総案が道案内してくれるし、黙っていても旅館の宣伝をしてくれるし、遊んでいるのと同じだよね」

と、ある旅館のベテラン営業マンは、おおっぴらに公言していた。

天城さんが舘山寺の旅館に途中入社した時代の旅館セールスといえば同行セールスが当たり前であった。だから、天城さんがセールスに出るにあたって、社長から「総案と同行セールスをしてください」との指示があっても何の不思議はない。

だとしても天城さんは、前職では一介の平社員ではなかった。生保の営業所長を務めエリアマネージャーまで勤め上げた人物である。かような営業の猛者が、なんで、取り組みが甘い同行セールスをしたのか? 実はネヲン、そこが疑問であった。

同行セールス秘話

「遠路はるばるご苦労様です」

ネヲンは、訪問先の旅行業者のこの一声から、セールスが始まると思っている。

この一声で、お互いの垣根がはらわれ、お付き合いの扉が開かれるからだ。セールスで重要なのは、当事者どうしがお互いの立場を尊重しあって会話をなすことにある。

同行セールスの問題点は、旅行業者が「わざわざ足を運んでくれてありがとう」と、言っているのは「総案」に対してで、総案のあとつづく旅館の営業マンにではない。すなわち、総案の付録である旅館の営業マンはセールスの主体になっていないのだ。

旅館時代のネヲンは、総案のあとに付いて回る営業なんて、営業マンをダメにするだけだと思っていた。そんなネヲンが、総案を起業し、旅館の営業マンを連れ回す同行セールスをし、営業マンをダメにする側になるなんて人生とは皮肉なものである。

天城さんがやってきた

平成20年10月の半ば、天城さんは、不織布のトートバッグに、営業の補助資料をいっぱい詰め込んでやってきた。その重さたるや、持ちあげただけで力瘤が出た。

重たいトートバッグ
トートバックにいっぱい詰め込んで

トートバッグの中身は、エアーパークやうなぎパイファクトリーなどの近隣の観光施設のリーフレットで、三つ折り、四つ折りをひろげて1枚のペラに戻し、その束を、クリアファイルに挟み込んだもので、営業予定件数と同じ20冊あった。

「いい旅」の表紙

チラシの冊子「いい旅」

ネヲンはそのファイルの束を見て、オレが作っているチラシの冊子「いい旅」と同じだと思った。

オレも生保の元・所長と同じことをしていたのだ思うと嬉しくなった。この日は、晴れやかな気分で同行セールスに打って出た。

ネヲンはチョット頑張って、他の総案にはまねのできない「いい旅」を作った。作成のきっかけは、旅行業者の店頭でホコリをかぶっていたチラシの山を見たときであった。それにはある魂胆があった。

ネヲンは「いい旅」を、セールスさきで、御社のために夜も寝ないで作りましたという顔で差し出すと「ありがとう!」と、賞賛と感謝がまじった言葉が返ってくる。黙って手渡すだけで営業効果はバッチリであった。

不可解な挙動

あるセールス先でのことである。天城さんからファイルを手渡された旅行業者は、資料収集の労をねぎらいながら天城さんに問いかけた。いい雰囲気であった。こんなときネヲンは二人の会話に割り込まず、傍らでただボヤッと聞き流していた。

が、とある観光施設のことで、具体的な会話になったときから天城さんの言動が不自然になった。天城さんは指をなめなめ、リーフレットの束をめくるが、なかなか当該のリーフレットを探し出せないでいた。ネヲン「?」と、小首をかしげ見守った。

旅行業者の質問に天城さんはウヤムヤな返答しかしない。しかも、リーフレットを縦にしたり横にしたりしながらである。天城さんの受け応えからは、現地の情報をしっかりと把握しているようには聞こえなかった。

ネヲンにとって、生保の所長といえば営業の鬼、バリバリのセールスマンだったと思っていたので、天城さんのこんな所業が不可解であり驚きであった。

今も天城さんは、保険屋時代の営業手法を継承し、リーフレットの束は保険商品説明書と見立てて、営業の付属品として持参していたフシがある。保険商品説明書を見て質問する人がいなかったように、旅行業者からの質問は予想外だったのだろう。

同じような冊子を持ち歩く二人であったが、ネヲンのチラシの冊子「いい旅」には、自分が楽をするための下心もパンパンに詰めこんであった。

住所録

天城さんが、いつものよう自信にみちあふれた顔でやってきた。もう何回目であろうか、月一のぺースである。

「今日の営業先は、どちら方面ですか?」

と言いながら、天城さんは車が動き出すと、きまって横向きA3サイズの集計用紙を取り出す。それには下手糞な文字で旅行業者名と住所が書いてある。私製の住所録である。そして、旅行業者名簿に追加記入の態勢を整える。

住所録の作成
住所録の作成に異様な執念を燃やす

ネヲンは、長く続いた団体旅行の時代が終わり、間もなく街の旅行業者が自然消滅することが予見できたので、天城さんは無駄なことをしていると思っていた。

「天城さん、なんでそんなに名簿作りに執着するの?」

「後続のために資料として残すんです」

と、天城さんは力を込めて返した。

「なら、せめてワープロかパソコンを使えよ」

「いいんです! 書類は心を込めて書くところに意味があるんです」

と、天城さんは言い返す。

自信満々の石頭野郎ほど扱いにくいものはない。ネヲンは、元・生保の所長への尊敬の念がますます薄くなった。

大会社の営業所のトップともなると平時は暇である。理由は、大きな会社の社員は優秀だからだ。仕事といえば本部に上げる日報ぐらいである。だから、住所録なんてものを作り始め仕事熱心のようなふりをする。

ネヲン、もしかしたら天城さんは、日本一、幸せなサラリーマンではないかと思っていた。かって、天城さんの生保勤務時代が日本の高度成長期と時を同じくし、そして今も、過去の栄光の時代の脳の回路のまま仕事ができているからである。

今日も、総案という部下に車の運転をさせ、自分は上司然として助手席で住所録を広げ、生保の所長時代のスタイルそのままの仕事ぶりであった。

異様な執念

旅行業者名簿作りに執念を燃やす天城さんは、時に異様な行動をする。それは、旅行会社の看板がない、バス会社の OB などの外務員宅を訪問した時である。そんな家で表札が無かったり、本人が不在等で名刺が手に入らないときである。

キョロキョロする
旅行業者宅で表札を探し回る

そんな時、天城さんはネヲンに問いかける。

「所長、ここは?」

「なんとかさん家(ち)だよ」

と、ネヲンは生返事をする。

ネヲン、意地悪く答えるのは、天城さんの名簿作りに協力する気がないのと、年のせいでとっさに名前が出でこないからだ。

すると天城さんは、住所・氏名が書かれたポストなどがないかと、玄関先はおろか門柱の裏側までくまなく探し回る。クソがしたくなった犬のように、せわしくウロウロと動きまわる。オレは、かわいそうな習性だなとおもいつつ、隣近所の人がみたらドロボーの下見ではないかと疑われそうで気になった。

しかし、住所録に執着する天城さんも現場を離れるとなぜか淡泊になる。事務所にもどっても、不明の旅行業者欄を埋めようとする気配がない。家内や事務員に聞いている様子もない。「教えて」というのがキライなタイプなのかな?

ラーメン大好き

ネヲンは同行セールスが楽しみであった。旅館の営業さんが昼メシをご馳走してくれるからだ。ちなみに、旅館業界の慣行で、営業さんの出張経費はすべて会社が負担した。といっても経費は無限ではなく、昼食は1000円ぐらいが相場であった。

ラーメン
天城さんの大好物のこってり系のラーメン

まもまく11時半になる。

「今日のお昼は、ナニにしましょうか?」

「いつもの」

と、ネヲンのお伺いに、天城さんのいつもの返事をする。

「はい、わかりました」

と、ネヲンは少々イヤミっぽく返す。

この「いつもの」とは、濃厚こってり系のラーメンのことである。これって、初めてのときはネヲン驚いた。営業マンの昼飯といえば、和食かソバ、洋食が常識だろうとだろうと思い込んでいたからである。

天城さんはお店に入ると、ミニ丼付きのラーメン大盛セットと餃子を平然と注文する。そして、運ばれたラーメンに、おろしニンニクをたっぷりと入れて美味そうにすする。餃子も然り。食欲旺盛である。ネヲンもラーメンが大好きだから黙ってご相伴にあずかった。

珍達そば

秩父名物 こだわりの支那そば

秩父市へ営業に行った時である。旅行業者さんの勧めで「珍達そば」店に入った。煮込みラーメンのようなとろみで最後までアツアツのまま食べられる秩父名物だ。

餃子は夕方より、ランチタイムは大盛りも出来ないとのことであった。天城さんは不機嫌になった。

カセットテープ

「温泉旅館」と「旅行業者」は持ちつ持たれつの関係にあるが、総案が介在したとしても、両社は最初から親密ではない。売り手と買い手という関係があるからだ。

温泉旅館が、旅行業者からお客さんをもらうにはいい関係を作り信頼度を高めるしかない。この信頼度を高める第一歩がセールスである。

単純に言えば、顔を合わせる機会が多いほど親密感がアップする。「総案」が「旅行業者」との結びつきが強いのは、同じエリアで長きにわたり営業をしているからだ。

ラジカセ
営業トークがいっぱいつまったラジカセ

旅行業者を訪ね、ネヲンの「こんにちは!」のひとことで、すぐに、おたがいが「やあ、やあ」となる。この雰囲気を利用するのが同行セールスの第一歩である。

天城さん、さすが元・生保の所長さんだ。この空気を察知する名人である。店内の空気が変わると、すかさずサッと一歩踏み出し「ホテル舘山寺の天城です」と名刺を差し出す。そのタイミングが実にいい。

天城さんは名刺交換を終えると、すぐに体内ラジカセのスイッチを「ON」にし、いつでもどこでも寸分たがわぬセールストークをながす。これって、毎回、相手が違うのだから、それはそれでいいと思う。

天城さんのセールストークは、暗記したものをただ繰り返すだけの並の営業マンとは異なり、話し方こそ穏やかであるが、そこには、生保セールス特有の、つかんだ獲物は絶対に逃がさない、という粘り強く強烈なものがあった。

このトークに気おされた旅行業者は、ネヲンに救助のアイコンタクトをそっと送ってくる。これ、館内の説明や付近の紹介に熱中している天城さんは気が付かない。

救助の信号を受信したネヲンは、これでもかと話を続ける天城さんの熱弁をさえぎるように、関係のない話題をふって会話に割りこむと、旅行業者さんはホッとした顔でオレの話に乗ってくる。すると天城さんは、ムッとした顔でオレをにらみつける。

こっぴどく叱られる

このあとネヲンは、

「所長は不謹慎だ、営業は遊びではない。くだらない話をするな!」

と、移動中の車内で天城さんにこっぴどく叱られる。

こっぴどく叱られる
こっぴどく叱られる

「私の営業力でせっかく話が盛り上がり、これから送客につながるという時にかぎって、所長はチャチャを入れ、話をブチ壊してしまう。だから所長のところは、営業成績が上がらないのだ」

と、容赦なく叩かれる。

こんな時の天城さんは、前職の所長時代の仕事モードに入り、ネヲンをダメな部下とみたてて、強烈な叱責の言葉を浴びせてくる。

ネヲン、こんな状態の時の天城さんにはとうてい太刀打ちできないので気が静まるのを待つ。まあ、なんて仕事熱心な人なんだろ~、また、なんて仕事オンチなんだろう、と思いながら…。

天城さんは、前職の「保険屋」の営業形態、すなわち、押して、押して、押しまくって客の心を無理やりにでも動かして契約にいたる、という道筋が絶対だと信じているので、この流れを断ち切るようなネヲンの言動が許せないのである。

ネヲンと同行セールスをしても、旅行業者の前ではほとんどしゃべらない営業さんもいる。福島の旅館の営業さんと長野の旅館の営業さんである。この二人の共通点は、パンフ一部に名刺を添えて「○○です」と、自分の名を言うだけである。

福島の旅館の営業さんは、人間は一日に覚えられるのは精々三つ。日に十人以上も来る旅館の営業マンの話なんていちいち覚えてない。興味があれば、相手から声をかけられるから、その時に答えればいいと言う。

長野の旅館の営業さんは、店内をそれとなく見回して、ここはお客さんがありそうだと感じた時だけ口を開く。曰く、客のない旅行業者に話しても疲れるだけだと言う。

訪問軒数のノルマ

天城さんは、旅行業者訪問のノルマを一日20件とネヲンに課した。ノルマ達成に対する天城さんの圧力は強烈で、ネヲンは当初、その何が何でもやり抜くとう姿勢に共感を覚えたが、いまは疑問符が付くようになった。

それは、地域や旅行業者を問わず、とにかく20件の訪問ノルマを達成すれば機嫌がよかったからだ。ネヲンがそっと帳尻合わせの営業をしてもである。

さらに、近ごろのネヲンは、不謹慎にも、天城さんが本当に組織のトップ(営業所長)だったのかと疑問を抱くようになった。どうみても、時代の流れを読むとか、営業エリアの現状を把握し攻略法を考えている様子が見えないからである。

天城さんの胸の内
天城さんの胸の内

この日、ネヲンなりの営業予定が一段落したので帰途につこうとした。その気配を察知して、天城さんは20件というノルマを消化していないので不機嫌になった。

「所長! あと5件分の資料が残っています」

と、天城さんがいたく不満げにいった。

「そんなに件数にこだわるのならば一人で勝手にセールスすれば…」

と、ネヲンは、天城さんの圧を跳ね返すように応じた。

「いいですか、所長! 私の営業方針は種まきなんです。だから一定の件数を回ることには意義があるんです。それと、私が一人で営業しないのは、県下における所長さん(ネヲン)の信用力と、私の営業力をプラスして成果をあげることです」

と、生保時代の営業手法が絶対と信じてやまない天城さんの反撃がはじまった。

「所長の信用力を利用して? カッコいいことをいうな、本当はひとりでのセールスが怖いのだろう」

と、ネヲンも負けずにいい返した。

「そんなことはない。私は、断わられることからはじまる生保業界を生き抜いてきた男です」

と、天城さんも素早く反撃のパンチを繰り出す。

「ところで、天城さんって算数が苦手だったの?」

と、ネヲンが話題を少しズラせると、天城さんは、コイツ気がふれたのか? というような目でネヲンを一瞥した。

「ネヲンの信用力 + 天城さんの営業力 = 営業成績という、簡単な足し算が天城さんはできないようだね。これを数字に置き換えると、50 + 50 = 100 だよね。ということは、ダメなオレが「0点」でも、優秀な天城さんがいれば、答えは「50点」になるはずなのに、それが「0点」とはどういう計算なの?」

「天城さん! 実際は、天城さんには自慢するほどの営業力が無いのと違う? だから、合計点が 0点になるのじゃないの?」

と、ネヲンは剛速球を投げ込んだ。

「違います、所長! あなたが、マイナス 50点なのです! だから答えが 0点なんです」

と天城さんは、凄まじい昭和の管理能力を発動した。

ネヲンは、ここで鉾を収めた。この状況は天城さんの土俵になったので、このまま続けるとコテンパンに打ちのめされるからである。元生保の所長の力強い管理能力を感じる問答であった。

営業経路

旅館出身のネヲンは過去の経験を活かし、総案に都合のいい「ルートセールス」ではなく、来所した営業さんに少しでも成果が出るようにと考え、その旅館と相性なよさそうな旅行業者を選んで、その時々で営業コースを選定していた。

怒るゴリラの人形
訳の分からないことをわめき散らす

次の月、今日の天城さんは特に機嫌が悪かった。それと、自慢の私製の住所録が活用できない不満が重なって、ネヲンのセールス経路について文句を爆発させた。

「あのですね、所長! 他県(よそ)の総案さんは、一日の営業コースが決まっていて、いつも順番どおりに営業をするんです。だから、われわれ旅館の者は事前に心の準備ができて、それなりの対応ができるんです」

と、天城さんが噛みついた。

「所長はいつも適当に回っている。まったくいい加減なんだから! こんな適当な仕事をしているから、所長のところは客が出ないんですよ」

と、さらに不満をぶつけてきた。

「天城さんお言葉ですが、客がないのは我々の努力云々の問題ではなく、時代のせいだと思うよ。実際に、どこの旅行業者にも客がないみたいだよ」

と、ネヲンは心の中で、いい加減じゃあねえよ、誰よりも旅館のことを思ってるよと反発しながら反論した。

「お客さんが無いわけではありません。私は、カクカクシカジカで元気に頑張っている旅行業者さんを知っています! 団体客は確かに少なくなったが、ゼロになるわけではない。ゼロにならない限りは、所長! あなたは夜も寝ないで頑張んなさい」

と、天城さんは、理不尽なことを一気にまくしたてた。

「じゃあ天城さん、仮に、最後の一組の団体さんを獲得したからといって、それでどうやってメシを食うんだ! それと人間は寝ないと死んじゃうよ」

と、ネヲンが言い返した。

天城さんは自分が不利になると黙りこくる。そして、相手の興奮が下がりきると強烈な反撃をする。その間合いがとても素晴らしい。

今回も、ややあって天城さんは、

「それでもやるんです!」

と、力をこめて強烈なひとことを発した。

その一言には、何が何でもやらせるぞ! という強い意思がある。天城さんは、ネヲンが営業姿勢さえ改めれば、まだまだ成果が出ると考えているようだ。

天城さんは、団体旅行から、家族、仲間同士の個人旅行の時代へと移りつつある現実を認めようとしない。イヤ、もしかしたら理解できないのかもしれない。

分かったぞ!

ネヲンには、「生命保険会社=営業集団」という方程式が頭にあった。だから、生命保険会社の営業さんたちは、全員がバリバリの営業力を持っており、さらに、営業所長ともなれば、「営業の権化」だと思い込んでいた。

このような先入観でネヲンは、初対面以来、天城さんのことを、「営業の神様」だと崇拝していきが、それが、ここにきて見当違いだと気が付いた。

ネヲンの誤解の原因は、生命保険会社の営業所長は、「所長=営業能力」という思い込みで、営業所長にはもう一つのタイプ、「所長=管理能力」という、さらに程度の高い方程式があることに思い至ったことである。

天城さんが生命保険会社で出世したのは、ネヲンの期待を裏切り、営業力ではなく、そのたぐいまれなる部下管理能力だったのだ。この能力のエネルギー源は、持って生まれた、「軍曹タイプ」という資質からきていた。

ヒラメキのポーズ
分かったぞ!

天城さんが現役の昭和の時代には、社会の雰囲気を反映する「24時間戦えますか」という、エネルギッシュな CMソングが流れていた。

そう、当時は、「生産者」が圧倒的に優位な時代であった。だから、製造業は製品を作れば売れ、サービス業は「顧客獲得」に走り回れば儲かった。

こんな時代のリーダーに求められた資質は、いかに、部下たちを寝かさず、24時間休まずに働かせる能力であった。そう昭和は、天城さんのように、「軍曹タイプ」という資質を持って生まれたリーダーたちの天下であった。

海軍軍曹のイラスト

軍曹タイプの天城さん

目標達成に向けて命令と気合が中心で、黙って働けというリーダータイプの天城さんは輝いていた。

昭和は激動の時代でした。社会の変化が大きかった昭和の時代に活躍したリーダーたちの特徴は、困難を乗り越える精神力、目標達成への粘り強さでした。

変わらない? 変えられない?

平成も20年代になると立場が逆転して、「消費者」が優位な時代になった。営業手法は時代に合わせて変えるべきである。が、天城さんは昔取った杵柄に固執して営業手法を変えなかった。だから、ネヲンに対していつもイラだっていた。

ネヲンは、天城さんを困らせようと逆らっり反発したりしたのではない。衰退期に入った観光業界での生き残り戦略、また、こんな時代を乗り切りるヒントが欲しくて抵抗したのである。

しかし天城さんは、「団体客がなければ旅館の経営が成り立たない」の一点張りであった。「では、どうする?」という答えが全くない。 時代の変化までも、両手を広げ身を挺して、力づくで押しとどめようとする、「軍曹タイプ」であった。

悩める天城さん

天城さんが来所して以来、1年が過ぎていた。今朝も天城さんに元気がない。ネヲンは前回から気になっていたので、朝、動きだした車中ですぐに声をかけた。

「どうしたの天城さん?」

「・・・」

天城さんは沈黙のままであった。

やや時を置いて天城さんは、

「いつも支配人として、陰ひなたなく仕事に励んでいるのに、近ごろ、女将との間にすきま風を感じるようになった」

と、沈んだ声でいった。

女将さん
女将さんは厳しい決断を下した

「なんだそんなことか。疎んじられるのはあたり前だよ!」

と、ネヲンはきっぱりと断言した。

この言い方に、天城さんはムッとして黙りこくった。が、耳はそばだてているようなので、ネヲン、いつものお礼にとばかり遠慮なく続けた。

「あのね天城さん! 今の旅館業界は存亡の危機に瀕しているの。なのに天城さんは、前職の所長時代と変わらぬ気持ちのまま、今の仕事をしているでしょう。どお?」

と、ネヲンはサラリと問いつめた。

天城さんは、前職と変わらぬ働き方という言葉に反応して、

「そうですよ私は、夜は宴会場のあと片付けがすべてが終わるまで、朝は、6時に出社して朝食会場の準備・手伝い、昼はチェックインと、いつも全力で頑張っています」

と、少し元気をとりもどし自信ありげに力を込めて答えた。

「馬ッ鹿じゃねえの、それは平社員の働き方!」

とネヲンは、支配人という立場を理解しない天城さんにきつく言った。

海軍参謀のイラスト

将校タイプ指導者

今、温泉旅館業界は未曽有の事態に陥っている。原因は、団体旅行が苦境に立たされているからだ。

将校タイプのリーダーは、この危機的な状況において、前例にとらわれず客観的に情報を収集し分析をし、部下にも理解しやすいよう具体的に行動を指示する。

「天城さん! 女将はね、天城さんに下働きではなく、この難局を乗り切る『司令塔』になってほしいと願っているの。分かるかな? だって、元大手生命保険会社の所長という肩書で入社したんだから、女将の期待は当たり前だろう」

天城さんに対する女将の期待は、ネヲンの営業に対する期待と同じであった。女将は、天城さんに旅館改革の中心的な役割を担って欲しかったのだ。が、いつまでたっても上にあがってこない天城さんを、女将は ”将器にあらず” と判断したようだ。

「・・・」

分かったのかわからないのか、天城さんは沈黙のままであった。

沈黙を続ける天城さんに、

「あのね~天城さん! 悩むことはないよ。答えは簡単、平社員に降格してもらえ」

と、ネヲンは唐突に結論を出した。そして、

「だって、支配人としての仕事をしていないのだから当然でしょう」

と付け加えた。

天城さんは、コイツ、嫌なイヤなことを平気でいいやがる、という顔つきで無視を決め込んでいたが、旅館に戻るとあっさりと支配人職を返上した。支配人職を返上するなんて、並の人間にはできない。低いようで高いのがプライドである。

運・不運は、紙一重である。天城さんの入社時には支配人席が空いていた。このことは、天城さんにとってはラッキーだったが、異業種から参入したので、未知の旅館の支配人学を習得する機会を持てなかったアンラッキーもついてきたのだ。

突然のわかれ…

出会いから5年が過ぎた年末、

「じつは、今回はお別れの挨拶もかねてお邪魔しました」

と、天城さんがお歳暮の三ケ日みかん持ってやって来た。

思いがけないことを聞かされたネヲン、この石頭野郎との付き合いが終わるかと思ったらホッとした。しかし、寂しい気持ちも急激にわきあがった。

「ところで天城さん、なんで、あんなに住所録に固執したの?」

と、ネヲンはさみしさを紛らわせるかのように話しかけた。

天城さん退職が決まり肩の荷が下りたのか、にっこりと微笑んで昔話をした。

「実はですね、私、生保に営業として入社してからの3年間、成績が全くあがらず落ちこぼれだったんです。そんなある時、備品庫で、誇りまみれの古い顧客台帳を見つけたんです。それを頼りにセールスをはじめたっら、あれよあれよという間にトップセールスマンになり、今の私があるんです。」

そして、天城さんの突然の退職理由は、残りの人生、今度は私に付き合ってと奥さんにいわれたからだそうだ。頑固だが根はやさしい天城さん、奥さんの実家の伊豆に移住して夫婦で花作りをし、第三の人生に挑戦するといった。

マーガレット
晩秋から春に花を咲かせるマーガレット

まずはマーガレット栽培から始めるといった。天城さん、新しい顔をみせて静かに帰っていった。頑張れ! 応援してま~す。